2016年11月03日

シューベルトの「未完成」は”未完成”ではなかった?



シューベルトの交響曲「未完成」を初めて聴いたのは小学生の時、
実家にあったレコードの中にフルトベングラー指揮でなぜかメンコンとカップリングになっている「未完成」があった。

とにかく出だしが印象的で、地獄の底からかすかに鳴り響いてくるような音に
子どもごころにビビっていたのを覚えている。

ちなみに、このレコードと多分同じ音源だ思われるCDを数年前に入手して聴いてみたのだが、
どことなく、深みがない気がしてガッカリした。
奥行きが全然感じられなかった、というか。
同じ音源のはずなのだが、CDとレコードの違いがあるのだろうか。ミックスダウンが違っているのか。



さて、「未完成」が未完成であることの理由などは人並みに知っていたつもりだったが、
最近あるネットでぐるぐる見ていたら、とあるサイトで、”「未完成」は未完成ではなかった”、とする説があるのを知ってビックリした。

http://classic.music.coocan.jp/sym/schubert/schubert8.htm



リンクさせていただきます。感謝します。


ーーーーーー 以下、転載

・・・
 アーノンクールはウィーン交響楽団との旧録音においては、この説を全面的に採用し、作文に即して曲を解釈したらしい。以下の訳は、そのCDの日本語解説からとったものである。

1.

 私には兄弟姉妹がたくさんいた。父も母も良い人だった。私はみんなを深く愛していた。− ある時父が私たちをさる祝宴に連れて行ってくれた。他の兄弟たちはとちも楽しんでいた。でも私は悲しかった。父は私の所へきて、高価なごちそうを味わうように命じた。でも私には出来なかったので、父は私を目の届かないところへ追い払った。私は歩みの向きを変え、愛を受け入れてくれなかった人たちへの限りない愛で胸をいっぱいにして、遠くの土地へとさすらっていった。何年もの間、私の気持ちは、この上ない苦悩と愛とに引き裂かれていた。そこへ母の死の知らせが届いた。私は一目母に会おうと急いだ。父は悲しみに心を和らげ、私が入っていくのを拒まなかった。母の亡骸が見えた。涙があふれ出た。私たち皆が、亡き人の言うとおりに振る舞っていた古き良き昔と同じように、あのころのままの姿で母が横たわっているのが見えた。
 私たちは涙ながらに亡骸の後をついていき、棺を埋めた。 − この時から私は再び家に戻った。そしてある時、父はまた私を自分のお気に入りの庭園に連れて行った。父は私に気に入ったかと尋ねた。しかし私はその庭を嫌いだったので何も言えなかった。すると父はかっとなって、もう一度私にきいた。この庭が気に入ったか? 私はびくびくしながら否定した。すると父は私を殴り、私は逃げ去った。そして私はもう一度歩みの向きを変え、愛を受け入れてくれなかった人たちへの限りない愛で胸をいっぱいにして、再び遠くの土地へとさすらっていった。もう何年も何年も私は歌を歌った。愛を歌おうとすると、愛は苦悩となった。そして今度は苦悩だけを歌おうとすると、苦悩は愛になるのだった。こうして私の気持ちは、苦悩と愛とに引き裂かれていた。

2.
 そしてある時、私は一人の敬虔な乙女が近頃亡くなったという知らせを受けた。彼女の墓の周りには、たくさんの若者たちや老人たちが輪をなして、至福に包まれたようにいつまでも歩き続けていた。彼らは乙女を起こさぬように静かに話していた。
 神々しい想念が絶え間なく乙女の墓から若者たちのほうへ、きらめく火花のように飛び散っては、柔らかな音を立てていた。私もそこで輪になって歩きたいと強く願った。しかし人々は、奇蹟だけが輪に導いてくれるのだ、と言った。私はそれでもゆっくりとした足取りで、心の中で祈り、信仰を確かめて、目を伏せたまま墓のほうへと進んだ。気がついたら私は輪の中にいた。輪は不思議な音を立てていた。永遠の至福が一瞬の間に凝縮したような感じがした。父とも和解し、愛情を抱いて会った。父は私を腕の中に抱いて泣いた。でも私はもっと泣いた。

詩に基づく曲の解釈

 第1楽章、第1主題の低弦の序奏は「墓」、続く第1主題は「悲しみ」、第2主題は「愛」である。展開部冒頭が「不安」で、その後の悲劇的盛り上がりは「苦悩」である。
 第2楽章、第1主題は、上声が「至福」で低弦が「歩み」、第2主題のシンコペーションのリズムが「私も輪になって歩きたい」という憧れ、そして「歩み」と「あこがれ」を経て、再現部の直前が「奇蹟の格言=奇蹟だけが輪に導いてくれる」。(なお、この楽章は展開部無しのソナタ形式である。)コーダ直前に「気がついたら私は輪の中にいた」、そしてコーダが「輪から生ずる不思議な音」である。

ーーーーー 転載、ここまで


この文章によると、そもそも”未完成”なわけではなく2楽章で完成されていたというわけだ。
それは興味深い。交響詩みたいな捉え方かな?

ただ、しかし、そうだとすると、じゃあ、3楽章の冒頭の書き出しのスケッチはなんだということになる。

永遠に結論が出ない話だが、考えること自体がロマンだなあ(笑)

ちなみに、
上のシューベルト自身の文章の中の
「愛を歌おうとすると、愛は苦悩となった。そして今度は苦悩だけを歌おうとすると、苦悩は愛になるのだった。」という言葉がシューベルト音楽そのものという感じがする。
短調と長調をいったりきたりし、とにかく透明で美しく、楽しくも、同時に悲しく、どこか死にまとわりつかれているような音楽。




この「未完成」のタイトルについての文章で一番笑ったのが
N響の茂木氏の次の文章、

「(これをシューベルトがつけた題名のようにぼんやりと思ってた君!それじゃギャグだぞ!)」

そりゃそうだ、自分でつけるやつはいないわな(笑)


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posted by たこすけ at 16:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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